昭和55年 株式会社内山精工を設立。
昭和56年 第2工場完成。
昭和59年 資本金1,000万円に増資。
昭和59年 社員更衣室、会議室を増設。
       工場敷地内を舗装、融雪装置も設置。
昭和61年 荷受け降ろし場を増設。

飛躍の瞬間−C

昭 和 55年

株式会社内山精工を設立


増産体制を整え、
株式会社内山精工が始動


第2工場(中央奥)完成後の内山精工全景[昭和56年]

 急激な円高の影響で全国的に不況ムードが漂っていた昭和53年、内山鉄工所は苦境に立たされた。まず、NC旋盤導入後の主力製品が、不二越の直営工場で内製化されたため、総受注量が一気に3割も激減したのである。
 これに追い打ちをかけたのが、苦境を脱しようと新たに開拓した受注先の倒産だった。ようやく石川県内の機械部品メーカーと契約を取り付け、徐々に売り上げが伸びようとしていた矢先のことであり、内山鉄工所は400万円の不渡りの被害を受けて、経営危機に追い込まれたのである。
 当時、専務だった内山康弘は必死の思いで、田中精密工業に社長の田中儀一郎氏を訪ねた。田中氏の元を訪ねたのは、内山鉄工所が先駆けてNC旋盤を導入した際に、前向きな経営戦略として高い評価を与えてくれたという経緯が一点。もう一つは、不況のさなかにあっても、着実に業績を伸ばし、成長を続ける同社の経営理念を何としても学び取りたかったからだ。
 内山の熱意は実を結んだ。田中精密工業の協力工場として、オートバイ部品の加工を継続的に受注することになった。また、内山はこの時、田中氏から「ものをつくる時には必ず、Q(品質)とC(価格)とD(納期)の三つに目を向けよ。どれか一つが欠けても、顧客を最大限に満足させることはできない」の教えを直にたたき込まれた。この田中氏の言葉は、内山精工の経営方針として根を下ろし、今に受け継がれている。
 契約後、内山鉄工所では、品質と生産性の向上に対応するため、オートバイ部品の生産ラインを3ラインに増やし、受注能力は4万個にまでアップした。
 さらに、新たな設備投資の資金調達を可能にするため、内山鉄工所は昭和55年、組織を株式会社内山精工に改めた。経営再建は順調に推移し、翌年に第2工場が完成。昭和57年には資本金を1000万円に増資し、倒産のピンチをバネにして、内山精工の強固なものづくり基盤と探求心に富む風土が整えられていった。


第2工場建設の地鎮祭に望む内山精一[昭和55年]



木造の旧工場に隣接して建設された第2工場[昭和56年]


創業50周年を記念し4泊5日の北海道旅行へ[昭和56年]

昭和55年 富山の動き

 2月 富山・長野女性連続誘拐・
     殺害事件が発生
 3月 富山地方鉄道射水線廃止
 4月 洗足学園魚津短期大学開学
11月 中沖豊、知事に当選
 2月 北陸自動車道の富山-滑川間が
     開通

昭和55年 日本と世界の動き

 1月 KDD疑惑発覚
 2月 早大入試問題漏洩発覚
 4月 東京で会社運転手・大貫久男さんが
     1億円を拾う
 5月 韓国全土に戒厳令、市民によるデモ
     「光州事件」発生。大平首相、
      急性心不全のため入院先の病院で死去
 7月 鈴木内閣発足。モスクワオリンピック開催、
     日、米、西独、中など不参加。
 9月 イラン・イラク戦争勃発