昭和6年
  内山鉄工所として創業。

昭和23年 上市町新町1番地に移転。 もちつき機、冷凍機などの設計製作を開始。

飛躍の瞬間−@

昭 和 6 年

上市町新町21番地で創業

内山鉄工所創業、農機具の
修理からスタートを切る

 親元を離れて奉公に出てから10年の歳月が流れ、たくましさを増した内山は、25歳の春に、大垣鉄工所を辞めて郷里に戻り、念願の鉄工所を創業した。仕事は農機具の修理から始まった。近所の農家から農機具修理の依頼を受けると、夜を徹して仕事に励んだ。確かな技術が評判を呼び、修理や製作の依頼が持ち込まれるようになるまでに、そう日はかからなかった。
 戦後の混乱を経て昭和23年には、内山鉄工所は8人の従業員を抱えるまでに成長していた。工場も手狭になったため、内山は上市町内に新たに旧家を買い取り一部を工場にした。移転後は、いろいろの農機具に加えて、もちつき機や冷凍機などの設計と製作も手がけ、内山精工へとつながる基礎を固めていった。
 金融恐慌の余じんがくすぶり、失業者の続出と農村の窮乏、労働運動の激化など、日本全体が大きな社会不安に包まれていた昭和6年4月、富山県上市町新町に、内山精工の母体となる内山鉄工所が産声を上げた。借家を改造しただけの小さな鉄工所の主は、企業の情熱だけは人一倍持った内山精一。従業員はなく、わずかの設備で文字通り裸一貫からのスタートであった。
 内山は明治39年8月、富山市で5人兄弟の真ん中に生まれた。家は鍛冶屋を営み、父親は明けても暮れても農耕馬の蹄鉄を打っていた。一家の暮らし向きは決して楽ではなく、内山は15歳になると、家計を助けるために、知人を頼って岐阜県の大垣鉄工所に丁稚奉公に出た。
 子供のころから自立心のおう盛だった内山は、いつの日か、自分の手で会社を旗揚げすることを夢見て、がむしゃらに働いた。そして、働きながら製作技術と知識を盗み取った。内山少年の素直で明るい性格は、先輩の職人にも気に入られ、かわいがられた。よく、お使いでたばこを買いに行かされ、釣り銭がお駄賃として当たった。内山少年は、それをいつか会社を興す時のささやかな資金にしようと、こつこつとため続けた。

精一の妻光子が娘の悦子に、
軸受用レースの旋削を手ほどき
[昭和25年]
創業まもないころの内山 鉄工所で、
旋盤を扱う内山精一
 

創業まもなく入社した山崎(左)と新井

後列左が内山精一。その隣は新井。
前列左はしは設計技術担当の金岡、
右はしは山崎[昭和26年]


内山鉄工所の開発製品の
もちつき機。現在も使われている

昭和6年 富山の動き

 5月 富山市と伏木町で第1回メーデー開催
 6月 神通川廃川地の埋め立て・富岩運河の開削工事
     の起工式が挙行
 8月 前田普羅らが高浜虚子一門を迎え、富山市で裏
     日本俳句大会を開催
11月 平村出身の鉢蝋清香らが水稲新品種「農林一号」
     を開発

昭和6年 日本と世界の動き

 4月 重要産業統制法公布
 9月 満州事変
12月 金輸出が再禁止